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ことわざ

【意味】空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで
    自然の成り行きに任せて行動するたとえ。また、一定の形をもたず、
    自然に移り変わってよどみがないことのたとえ。

7月に入り、2013年もあっという間に1年の半分が経過しました。新潟県をはじめ
北海道を除き全国的に梅雨入りしているといわれていますが、天候は夏そのもの。
まだ体が暑さに慣れきっていないので、熱中症や体調管理には気を付けたいものです。

とは言っても相手は自然。あらがうことも、コントロールすることもできませんので、
文字通り「自然の」成り行きに任せておきたいと思います。また人との対話についても、
自分の意思をはっきりと相手に伝えたら、相手がどう思うかはその人次第。そこで気を
やきもきしても始まりませんので、なすがまま、あるがままの自分でいたいですね。

この四字熟語を英訳するとしたらどうしましょう。私はピンときました。
名曲のタイトルにもなった【Let it be.】でどうでしょうか。
曲中ではマリア様がおっしゃった言葉として使われています。
なすがまま、そのままでいなさい。

【意味】一粒の籾(もみ)が万倍にも実る稲穂になるということから、わずかなものが非常に
    大きく成長することのたとえ。また、少しでも粗末にできないという気持ちをも表す。

TPP参加加盟国との交渉参加への舵きりから、メディアでの「日本のコメ食」についての報道を
見るようになりました。折をみて生徒さんたちに聞いてみると、「地元のコメの方が美味しいから
外国のコメが安くても食べないと思う」という答えが圧倒的に多く聞かれました。
しかし、よく行くファミリーレストランや食堂で出されているご飯がどこのお米なのか?と聞くと
誰一人、答えられませんでした。これは当然のことと言えるでしょう。

日本人にとって、特に新潟県の人たちにとってお米というのはとても身近で、当たり前の存在だと
思います。普段口にしているお米はほぼ国内産・県内産と思って食べているのは、子どもだけでなく
大人でも当てはまるでしょう。しかし、外食などで出されているご飯のなかにある割合で外国産の
コメが入るようになったとしたら、果たしてどれくらいの人がその違いに気づけるでしょうか。

子どもの頃からよく「お茶碗一膳分のお米は、田んぼに新聞紙を広げた面積分の稲からとれる」と
聞かされてきました。TPPに参加するしないという議論もそうですが、当たり前になってしまっている
【一粒のありがたみ】を再認識するいい機会なのだと思います。それはコメに限った話ではなく、
普段の食卓や生活で欠かせないものが、どのように作られ・届けられているかを考えてみたいものです。

【意味】田園で世間のわずらわしさを離れて、心穏やかに暮らすこと。
    晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもって読書する意から。

関東地方はじめ、西日本は梅雨入りをしていますが雨は少なめで、
新潟県も梅雨のような蒸し暑い曇り空は続くものの、肝心の雨が降っていません。
各地でダムの渇水が報道されるなど、水不足の声が早くもあがっていますが、
これ以上、雨がこないと農作物に影響がでてくるかもしれませんね。
一方、遠く離れてヨーロッパでは豪雨が続いていて、洪水などの被害もでているとのこと。
天気ばかりは、コントロールできませんし、文字通り「天に任せる」しかないようです。

今日の熟語も、自然に抗うことなく、なすがままに過ごすさまを表しています。
晴れれば晴れを楽しむ、また雨が降ればその雨をも楽しむ。梅雨を毛嫌いすることなく
上手に付き合っていければ、それもまた良いのかもしれません。
それでも、洗濯物が乾かなければ苛立ってしまうのは現代人の悪い癖ですね。

【意味】意志がしっかりしていて動揺しないさま。

「確乎」はしっかりとしているさまで「不抜」は固くて抜けない様子を表しています
「確固不抜」とも書きますので この「確固」であれば見たことのある方もいると
思います そう 「確固たる決意」などで使う「確固」ですね

どこかの国の政治家のみなさんも肝に銘じて欲しい熟語ですが
今の言葉でいうところの「ブレない」ことが大切という意味ですね
現代だけでなく 昔から発言や行動がブレていると なんとなく頼りなく
心配になってしまうのに変わりはないようです たとえそれが間違っていても
遠回りだとしても 自分の発言や行動の基準となるものはブレずにもっていたい
ものですね そしてより正しい答えや近道が見つかったとしたら そこで
取り込むことができる柔軟さも持ち合わせたいものです

【意味】表面は怖そうだが、内心はとてもやさしいこと。また、そのような人。
    鬼のように怖そうな顔に、仏のようなやさしい心の意から。
    反対の意味の言葉として「人面獣心」がある。

折りに触れ「優しい先生とはなにか」ということを指導者として考えることがあります
生徒にとっての優しい先生とは 分からない所を聞けばすぐに答えてくれる先生 と
答える方もいるでしょう しかし私の考えは少し…いや だいぶ違います
聞けば答えるというのは インターネットの検索サイトと一緒で 生徒の考える力が
損なわれてしまいます まして検索サイトで調べる力 またその得られた情報を
取捨選択する力も育まない側面も持っているかもしれません 情報が氾濫する昨今で
この力が極端に衰えている子どもたちを目にします
分からないという状況を把握し 自分なりの仮説を立て 実証/検証し考察するという
プロセスができなくなってきています 「分からないから教える」という単純な関係に
ならないよう 常に気を配って指導を行っています

ときに鬼のように生徒へは映るかもしれません 鬼で結構 嫌われて結構
その場しのぎで優しいと評価されるよりかは ずっと大切な関係だと信じています

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